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三浦半島散歩道

「源頼朝ゆかりのパワースポット!を巡る」三浦半島西コース遍

目次

【源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットin三浦半島】西コース

このたびは【源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットin三浦半島】西コースのWEBページをご覧いただき有難うございます。西コースでは、石橋山の戦いで大敗を喫した頼朝が難を逃れて心新たに再起をはかり、様々なご縁を引き寄せながら成功を掴んだストーリーにちなんで、森戸大明神、浄楽寺、海南神社をご紹介します。
頼朝が大願成就したように、みなさまの願いもきっと叶うと信じて、楽しみながら願掛け参りをしていきましょう。
また、三浦半島は頼朝の願いを叶えるうえで重要な役割を担った三浦一族の地です。西コースでは和田義盛にスポットを当て、頼朝との関係をはじめとする歴史もお伝えいたします。


祈願所① 頼朝の祈願所「森戸大明神」in葉山

晴れた日には海の向こうに雄大な富士山も眺められるここ葉山は、明治以降は保養地、そして別荘地としても知られるようになりました。ただ、遡れば、最初に別荘を持ったのは源頼朝だったのかもしれません。三崎御所があったように、葉山にも頼朝の別邸があったと伝えられています。また、頼朝だけでなく、頼家や実朝といった歴代将軍が訪れ、心身を癒した場所だったようです。

エピソード1:源氏の再興を祈念した三嶋大明神を、願いが叶い森戸大明神として勧請した頼朝

頼朝と三嶋大明神のつながりは、頼朝がまだ14歳、流人として伊豆の韮山に流されたころにさかのぼります。1160年に起こった平治の乱は、後白河天皇の側近である信西(しんぜい)と藤原信頼が対立したことによって起きた政変です。その時、信西には平氏が、藤原信頼には源氏が結びついて争いました。ここで源氏は負けてしまい、頼朝はなんとか死だけはまぬがれて伊豆に流されたというわけです。韮山で暮らしていた頼朝は、現在の静岡県三島市にある三嶋大社をたびたび訪れて、源氏の再興を祈願しました。

そして、頼朝が旗揚げに成功し、鎌倉に拠点を於いた1180年に、引き続き三嶋大明神のご加護をいただけるようにと、この葉山に御分霊を勧請したのです。ここでは流鏑馬や相撲など、武術なども行ったということが『吾妻鏡』にも記されています。頼朝や歴代将軍にとって、この開放的な景色を眺めながら、心身を浄化し癒す場所でもあったのかもしれません。

エピソード2:七瀬払の霊場とは?

武術だけではなく、何か災厄が起きたときは、この森戸大明神で加持祈祷が行われたそうです。穢れを祓い清める儀式の一種で、古来より朝廷で行われていました。その儀式は神聖な河海(かかい)に臨んで行われることになっており、このあたりでは七カ所あり、そのひとつが森戸です。森戸大明神をお参りすることによって、さらに心が浄化されて、スッキリしそうですね。
ここで、浄化の大切さについて、もう少しお話しいたします。祝詞の「祓詞(はらえことば)」に、「祓へ給へ清め給へ」という言葉がありますが、これは『古事記』にちなんでいます。火の神さまを出産したイザナミは、大やけどをして黄泉の国に行ってしまいました。イザナギはイザナミが恋しくて追いかけていったのですが、イザナミは変わり果てた姿になっていたのです。イザナミは「見てはいけないと言ったのに!!」と激怒し、驚いて逃げ出したイザナギを追いかけました。壮絶なバトルのあげく、イザナギとイザナミは「黄泉比比坂(よもつひらさか)」でお別れしました。そしてイザナギは黄泉の国のケガレを祓うために禊ぎ祓えを行ったのです。その時、たくさんの神々が生まれ、最後に左眼から天照大神(あまてらすおおみかみ)が、右眼からは月読命(つくよみのみこと)が、そして鼻からは須佐之男(すさのお)が生まれました。こうした神話に基づいて、日本人は古くから折に触れ心を浄化するために禊ぎ祓えを行ったんです。特に願掛けをするときには重要で、最初に申し上げたように祝詞の言葉にも出ています。頼朝の公式行事として最も重要なもののひとつが参拝でした。特に伊豆山神社と箱根神社を参拝する二所詣では、鎌倉の由比ヶ浜で何日も禊ぎをして心身を浄化してから出発しています。神さまの前に出るのに、身も心も清々しい方が願い事も聞いていただけそうですね。
また、このところ断捨離をする人が増えていますが、共通しているのは不要な物を手放すことによって心も整理され、なぜか良い事が起きるということです。部屋が広々としてきれいになったところで、本当に気に入った物だけを置いて気分良く豊かに暮らせるようになった、というのは良く聴く話です。イザナミと別れて浄化をしたイザナギがたくさんの神さまを生んだことと、なんとなく通じますよね。心の中に蓄積した心配事や不安など不要なものを浄化することは、断捨離をしてお部屋をすっきりさせることと同じです。不要な心配事や不安など重たい感情を浄化することによって心が軽くなり、楽しいことや前向きな希望などを抱けるようになっていきます。浄化をすることでたくさんの神さまを生んだイザナギのように、私たちも森戸神社で心を浄化して、たくさんの願いを現実化させましょう。

エピソード3:和田義盛が名付けた千貫松とは

森戸大明神にも和田義盛ゆかりのものがあります。神社の裏手、海の岩上に生えている松の木です。源頼朝公が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「いかにも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「われらはこれを千貫(せんかん)の値(あたい)ありとて千貫松(せんがんまつ)と呼びて候(そうろう)」と答えたと言い伝えられています。

エピソード4:三島大明神の種子が発芽した飛ビャクシン(発芽→芽が出る=めでたい)

また、樹齢800年にもなるご神木の飛ビャクシンもあります。1184年に頼朝が森戸大明神を参拝した際に、三嶋大明神から飛来した種が発芽してここまで大きくなったと伝えられています。非常に珍しいもので、葉山町の天然記念物にも指定されています。頼朝が願掛けをした三嶋大明神のビャクシンの芽が出たというのは、めでたいに通じます。みなさんの願い事もきっと芽が出るに違いありません。

エピソード5:森戸海岸で禊ぎ(足や手を水につける)富士山が見えたら幸運!

晴れていると、ちょうど目の前には富士山が見える、とにかく素晴らしい景色が森戸大明神の魅力でもあります。①神社の裏手から階段を下り海に手足をつけて禊ぎ
せっかくですから階段を降りて海辺に行ってみましょう。頼朝にならって、手足だけでも海水につけて禊ぎをしませんか?
②裕次郎灯台の説明
あの灯台がある場所は名島(菜島)といいます。灯台は葉山灯台というのですが、いつの間にか「裕次郎灯台」といわれるようになりました。実際に石原裕次郎の三周忌を記念して、お兄さんの石原慎太郎さんが会長を務めていた日本外洋帆走協会が基金を集めて建設した灯台なのです。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれているそうですよ。
③神社と沖の鳥居の間に、頼朝の別荘があったと伝わる
また、あの鳥居の手前あたりに頼朝の別荘があったと伝えられています。鎌倉時代は、あのあたりまで陸地があったということですね。

森戸大明神は見事な富士山が眺められます。最後に霊峰富士山に向かって手を合わせましょう。


祈願所② 和田義盛の祈願所「浄楽寺」in横須賀西海岸

エピソード1:和田義盛とは

芦名の浄楽寺は、和田義盛に深い関係があるお寺です。三浦義明の孫にあたる和田義盛は、衣笠合戦で衣笠城を脱出した後、千葉に向かう海上で頼朝と再会したといわれています。その時、義盛は、義明がどのような最期を遂げたのか、頼朝に伝えました。それで頼朝は義明の武士らしい忠義の心を知ることが出来たのですね。
さらに義盛は、頼朝が天下をとった暁には侍所別当(さむらいどころべっとう)に任じて欲しいと願い出たのです。石橋山の合戦に負けて、誰もが命からがら逃げ延びてガッカリしているところなのに、義盛だけは「天下を獲ったときには」という話をしたわけです。みんながネガティブになっている中で、ポジティブに振る舞えた義盛、なかなかすごいですよね!
しかも、その願いは実現しました。頼朝が鎌倉に入り、関東統治のための諸機関を設置した時に、義盛は侍所別当に任じられたのです。しかも、鎌倉に頼朝の御所が完成し、その入御の儀式の際には、義盛は御家人の最前列に立っています。頼朝も剛健な義盛が好きだったのでしょう。

エピソード2:浄楽寺と運慶作の仏像

浄楽寺は正確には「金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺(こんごうさんしょうちょうじゅいんおおみどうじょうらくじ)」といいます。開山されたのは平安時代後期から鎌倉時代初期の頃だといわれています。三浦半島のなかでも屈指の古刹です。1189年に源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために創建した鎌倉の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)を、1206年に現在地に移したとされる説と、和田義盛がこの地域に建立した七つの阿弥陀堂のうちのひとつだったのではないかとの説があります。浄楽寺は国の重要文化財に指定されている運慶作の仏像を、なんと5体も所蔵しています。その仏像をつくらせたのが、和田義盛です。

エピソード3:和田義盛はなぜ運慶に仏像をつくらせ浄楽寺に納めたのか

 なぜ和田義盛は運慶に仏像をつくらせたのか、はっきりしたことはわかっていません。経緯としては、まず1185年に源頼朝が奈良仏師の本家・慶朝(けいちょう)の子である成朝(せいちょう)を鎌倉に招いて、勝長寿院の阿弥陀如来像を造らせたと伝えられています。ちょうど同じ頃、運慶は政子の父である北条時政から依頼を受けて、願成就院に納める仏像の制作に携わっていました。和田義盛が運慶に仏像を造って欲しいと依頼し浄楽寺に納められたのは、それから三年後の1189年です。時政や義時から運慶のことを聞いて、魅力を感じたのかもしれませんね。注目すべきなのは、和田義盛が運慶に仏像を依頼した際、夫婦で発願しているところです。ただ、それは残念ながら巴御前ではないんです。巴御前よりも前の奥さんで、正妻だったようです。

エピソード4:浄楽寺で願掛け

浄楽寺では自分と向き合って雑念でいっぱいの心を見つめるのがテーマです。願掛けといっても、みなさんそれぞれ願い事は違いますよね。恋愛だったり、金運のこと、仕事のこと、家族のこと、いろいろだと思います。もしかしたら、なぜそれを願うのか、願いを叶えてどうなりたいのか、いまひとつ明確になっていないところもあるかもしれません。「あれもいい」「これもいい」と思う一方で、「どうせ叶わないんじゃないか」とか、逆に「叶ったところで次に欲しいものが出てくるだけだ」などと思っている自分がいませんか?私たちが考える以上に、人の心理は複雑です。そこで、その複雑な思いを少しでも整理して、本当に願っていることは何なのか、願いを叶えてどんな自分になりたいのか、シンプルに思えるよう整えていきたいわけです。ふだん、皆さんも忙しくて自分と静かに向き合う時間など持てないと思います。浄楽寺では、自分と向き合い、心静かな自分を意識してください。迷いながら願掛けをするような自分を手放すことによって、より強く願い事を届けることが出来ますよ。

エピソード5:「南無阿弥陀仏」にはどんな意味がある?

「南無阿弥陀仏」というお念仏は誰もがご存じだと思います。このお念仏を説いたのが法然上人といいます。法然上人は平安時代まで貴族の教養だった仏教を、なんとかして庶民に広めて人々の心に平安をもたらしたいと願いました。そこで、難しい仏典を読まなくても、「南無阿弥陀仏」とお称えすれば大丈夫だよというお念仏を広げたのです。その意味は「阿弥陀様、どうか助けてください。お救いください」です。

エピソード6:武士が仏教に帰依したわけ

鎌倉時代に新しい宗派の仏教が数多く誕生しましたが、京都では好意的に受け入れてもらえませんでした。いっぽう鎌倉では、比較的柔軟に受け入れてもらうことができたため、鎌倉時代に誕生した仏教を、鎌倉仏教とも鎌倉新仏教とも言われています。合戦を生業とする武士は、いうなれば救われない存在です。武士にとって仏教は心の拠り所になっていったにちがいありません。また、仏教は何と言っても教養の要です。鎌倉幕府を開いて朝廷や貴族と渡り合ううえでも教養が必要でした。他にも理由はあるにせよ、そうしたところから武士は仏教に帰依したと考えられます。

境内にはAR漫画付き解説看板が多数あります。看板を見て学びを深めましょう。


祈願所③ 三浦一族の総祈願所「海南神社」in三崎

エピソード1:「みうら」の地名は天皇から賜った

三浦の地は古来朝廷からも要所と見られていたようで、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にまつわる伝説なども残されています。また、「みうら」という地名も天皇から賜ったという古事があります。

エピソード2:桓武平氏の流れを汲む三浦一族

実は三浦一族も元を辿れば皇室に繋がります。平安時代初期に桓武天皇が増えすぎた子孫に氏姓を与え独立させたのですが、そのひとつが平姓で、三浦一族は平姓の直系といわれています。三浦を名乗るようになったのは為通(ためみち)からで、三浦氏の祖と伝えられます。

エピソード3:頼朝の別邸、三崎御所について

三崎は漁業の盛んな港町として知られていますが、頼朝の頃は風光明媚な景勝地でした。『吾妻鏡』には、源頼朝がしばしば三崎を訪れたと記されているんです。滞在先は「三崎の三御所」とも「三崎三荘」ともいわれる別邸でした。「桜の御所」「椿の御所」「桃の御所」と名付けられていたそうです。

エピソード4:鳥居は本宮のある花暮海岸に向いている

海南神社の創建はかなり古く866年で、その頃は海岸のほうにありました。この鳥居は花暮(はなくれ)海岸といわれる港にまっすぐ向いていて、そこが最初に祠が建立されたところです。その後、982年にこちらに社殿を造営して、花暮海岸の祠は本宮として位置づけられました。三浦一群の惣社となったのは、それからです。

エピソード5:主祭神、難を回避した藤原資盈

このように大変古い歴史のある海南神社ですが、主祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)といいます。資盈(すけみつ)は清和天皇の時代に皇位継承問題に巻き込まれ、言われなき罪をこうむって左遷されてしまいました。左遷先の福岡県に船で向かう途中、暴風に遭ってしまい三浦半島に漂着したのです。三崎の人々は、都の貴人が流れ着いたというので驚いたのでしょうね。資盈に「この地で長になってほしい」と頼んだのです。そこで資盈は房総の海賊を平定し、民が暮らしやすい街づくりや治世に努めました。そうして地元民から、ますます尊敬されるようになったんです。866年に資盈が亡くなってしまうと、人々は資盈を神さまとしてお祀りしました。海南神社の「かいなん」は勝手ながら「海難を回避する」「難を逃れる」ということにも通じるかなと思っています。三浦一族の和田義盛も海難を逃れていて、義盛を救った筌龍弁財天さんも、こちらでお祀りされています。みなさまもそれぞれ様々な困難を経験されていると思います。がんばったけれどくじけてしまったこともあったのではないでしょうか。資盈や義盛の歴史ストーリーにあやかって、これからは難を逃れて幸運を掴むことができるよう、お参りいたしましょう。

エピソード6:頼朝お手植えの銀杏(枝が龍の顔に)

龍神をお祀りする龍神社があります。すぐ後ろにある銀杏の巨木は源頼朝のお手植えだと伝えられていて、樹齢は約800年。ちょうど龍神社の上にかかっている枝が龍の顔に見えませんか?20年くらい前から、段々とそう見えるようになってきたということです。

エピソード7:稲荷神社にある謎の水晶

銀杏の向こうには稲荷神社があります。実は、お社の後ろには三つの水晶が埋められている場所があるんです!本殿をお参りした後で行ってみましょう。(※摂社や末社は本殿をお参りしたうえで参拝する)

エピソード8:三浦義明が紅白の狐が争う占い神事狐合(しんじこごう)を行い源頼朝に従事を決心

ここは三浦一族の2代目にあたる三浦為継(みうらためつぐ)の土地でした。平安時代に為継がこの土地を寄進し、社頭を改築したと伝えられています。それ以来、三浦一族の祈願所となったんですね。その為継の孫に当たる三浦義明は頼朝が旗揚げする際に、頼朝に味方するか、それとも平家側につくか、この海南神社で紅白の狐を戦わせて占ったと伝えられています。白は源氏、赤は平家を表しています。すると白い狐が勝ったため頼朝と共に戦う決心をしたのです。義明は石橋山の戦いの後で勃発した衣笠合戦で、一族を逃し自分は討ち死にします。その時、逃げ伸びた一族の一人が、和田義盛なんです。

エピソード9:和田義盛が筌龍弁財天のおかげで難を逃れる

義盛は三浦義明の子の一人である杉本義宗(よしむね)の子で、枝分かれした三浦一族の一人です。和田の里が所領だったので、和田と名乗るようになりました。義盛は、衣笠合戦の際に義明に「逃げて落ち延びよ」と言われ、衣笠城を脱出して久里浜から船で千葉を目指しました。ところがちょうど台風が来てしまったんです。荒波の中、海上を漂ううちに食糧もなくなってしまい、「もはやこれまでか」と死を覚悟したその時、義盛は龍神に夢中で祈りました。すると上空に巨大な龍が現れて、義盛たちの上を舞うと飛び去っていったのです。少しすると大きな「筌(せん)」と呼ばれる竹カゴが船のすぐ近くまで流れ着き、中にはたくさんの魚がありました。義盛は「龍神様がお助けくださったんだ!!」と確信したんですね。飢えを凌ぐことができ、無事、千葉に上陸することができました。 義盛は龍神のご加護に感謝して、「筌龍弁財天(せんりゅうべんざいてん)」をお祭りしました。ちょうど本殿から見て左手の丘の上に光念寺というお寺があります。義盛がお祀りしたのは光念寺さんの一角で、高台のため海がよく見えます。現在は海南神社の本殿でも筌龍弁財天をお祀りしているため、こちらでお参りすることができますよ。

以上、西コースのパワースポットをご紹介しました。
すべて巡って頼朝にあやかり心願成就されますことを心より祈念いたします。

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